「牡丹の間」続き。

アップしました。゚(゚´ω`゚)゚。

最近よく思うことは、小説も含めて、作品を創ったりすることって料理と似ていますよね。食べるのは一瞬かもしれないけれど、その一瞬のために、創り手は寝る間を惜しんで良いものを作るために研究したり、試作しては、これは違うと、あーでもないこーでもないと思い悩んで。

自分の思い描くものが書けなくて少し筆が止まっていました。アマチュアにもスランプはあります。゚(゚´ω`゚)゚。ひー!

とりあえずアイスを食べます。さいきんはミントアイスが大好き(๑˃̵ᴗ˂̵)

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ひと箱を2日で食べ終わるのって食べ過ぎかなぁ。。。

桜の頃。

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桜を見ていると、色んなものの輪郭がぼやけていき、今じぶんがどこへ立っているのか、じぶんはどこへ向かっているのか、桜の淡い優しい色に視界をふさがれるたび、まるで生きていることが、夢の中にいるのではないかと思えてくるような、不思議な感覚に包まれる。生と死があって、あの世とこの世とがあって、そうしたあらゆるもののカタチが溶け合って、今こうして桜を見上げてる自分もその一部なのだと。

春はいちばん得体の知れない捉えどころのない季節だと思う。春の嵐が桜を散らす夜は、憂鬱な気分で眠れない。だけども、その憂鬱さもまた春に属するもののような気がして好きなのである。

阪急電車が好き。

わたしは阪急電車が大好きである。鉄道オタクというわけでなく、わたしの阪急電車が好きという思いは、サンリオやキティーちゃんを好む気持ちと極めて同じところに所属しているように思う。去年、東京から用事で大阪に来たときに、梅田から京都の河原町へ向かう際に乗ったのが私と阪急電車との初めての出会い、ファーストインプレッションであった。

初めて阪急電車を見たとき、このエンジ色のツヤツヤした丸みを帯びた素敵な乗り物はなんでせうかΣ('◉⌓◉’)と目が醒めるような衝撃を覚えた。それと同時に、一目惚れにも似た、ときめく感情を阪急電車はわたしに覚えさせたのであった。

ドアがわたしを迎え入れるように開き、車中に入ると、ベルベットの奥行きのある椅子が疲れた身体を包んでくれる。今までわたしが乗っていた山手線や中央線という電車は一体なんだったのであろうか?あれはマボロシ?そんなふうに思ってしまうほど、あの日以来、阪急電車はわたしにとってベストオブ電車!まさに阪急電車のとりこ。

阪急電車は乗っていると居心地がよく、ずっと乗っていたいとすら思ってしまう。阪急電車にはそんな魔法がかけられているような気がしてしまう。

関西に越して来たわたしは、今日もウキウキと高揚した気持ちを抱き阪急電車に乗り込む。最近は、阪急電車のグッズを集めることに熱をあげており、今はペンポーチが欲しくて仕方ない。

キティーちゃんという神さま〜それはカワイイ戦士〜

生きていると疲れる。仕事にも人間関係にも何もかもに嫌気がさして、逃げ出したくなる。そんなとき、わたしは縋るようにピューロランドのショーの映像を見ている。キティーちゃんは言う。みんな仲良く。困っている人がいたら手を差し伸べよう、思いやりの心が何よりも大事なのだよと。

キティーちゃんやサンリオとの出逢いは物心付く前から、幼少期の頃から気がつくとサンリオの物が周りにあった。しかし、幼少期から出て、成長し自我を持つようになって改めて声を大にしてキティーちゃん及びサンリオが好き、大好きだという己を強く意識したのは成人してからだったように思う。

なぜ、それほどまでにキティーちゃんに惹かれるのか?理由のひとつに挙げられるのは、キティーちゃんは強いということ。ありとあらゆる企業とコラボし、どのような姿にも果敢に挑み、変身する。それを仕事を選ばないキティーさんと揶揄されることも多いが、それはキティーちゃんという土台の揺るがなさ、存在の絶対的さがあってこそ成り立つものであるのだ。

わたしはキティーちゃんが大好きだ。代わるものがないと思えるほど。メロディちゃんやキキララちゃんも大好きだけれど、やっぱりいちばんはキティーちゃん。キティーちゃんという母なる大地に、最終的には戻ってきてしまう。キティーちゃんやサンリオの可愛さとは、その「カワイイ」の裏にあるものとは、優しさや平和や愛、メルヘンな夢を変わらず与え続けてくれるところ。わたしはサンリオが与えてくれるメルヘンな夢の世界がなければ、この殺伐とした現実を生き延びてこれなかっただろう。今までも、そしてこれからもわたしはサンリオに支えられて生きていく。

心が疲れたときに、ピューロランドのショーの映像を一人見て歌い、オンオンと泣き、ピューロランドのボートライドを思い出すと、だいたいのことは癒されて乗り越えていける。

変わり続ける時代に、心から信じられるものがわからず、すべてが不確かであやふやなものに感じてしまうとき、わたしはキティーちゃんは大事なメッセージを届け続ける、世界でたった一人のカワイイ戦士のような気がして仕方ないのである。

いつも、いちご新聞のページをめくりながら、わたしはサンリオのある日本に生まれて良かったと、お母さんありがとうと柄にもなく思うのです。

キティーちゃん、そしてサンリオ万歳!!!いつもありがとう。





コートの偉大さについて。

4月になりました。私服がダサい私は慌てふためきました。なぜなら、もうコートを脱ぐ季節がやって来たのだから。

3月と4月は季節の変わり目。しかし何が違うの?3月までが冬で、4月からは春なの?4月になるといきなりパステルカラーの服を着て薄着にしなくちゃいけない?それは世間に刷り込まれたイメージでは?アパレルの戦略では?陰気な私はぼやきます。

それでも見えない(冬と春との)境界線がそこにくっきりと存在するのは確固とした事実で認めざるを得ません。ただ、もうコートを着れない、その現実が私を恐怖させ、縮みあがらせます。

それほどまでに、コートという存在に依存しきって私は今まで生きてきました。コートを着て外出してきた約4ヶ月間ものあいだ、心身ともにコートに甘えて過ごしていたことを痛感せずにはおれません。

休みの日は、寝間着のうえにコートを着てコンビニまで駆けても、コートを着ているという安心感が、ギリギリの、まともな人として成立するラインを保てていた・・・これが寝間着だけで外に出るとどうでしょう。下着をつけていないとなると心許ないし、また、寝間着のラブリーさが、自分の趣味嗜好までをも見知らぬ人に知らしめてしまう危うさまでをも孕んでいます。なんということでしょう。とても危険です。

コートの下は適当でいい。ダサいけど、まぁコートで隠れるしね、と逃げていた自分と、いまや、ついぞ対峙せざるを得ないところまで来てしまったのです。もう逃げることはできない。それが、この春といふ季節でもあるのです。


服を買いにいこっとε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘