西洋乞食

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先月、岡山に帰った際に、念願の「西洋乞食」に行って参りました!(((o(*゚▽゚*)o)))♡

もうね、ずーっと行ってみたかったの!

でも店主さんがご病気で、半年くらいかな、お店を閉められてたようで、なかなか行けなかったのでした。

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西洋乞食といえば、この薔薇のソーダフロート!!

店内の薄暗い照明が反射して、ソーダの碧が宝石のやうにキラキラ💎💎💎とっても綺麗。

薔薇も大きめで、バニラのアイスクリームを存分に味わえます( ˘ω˘ )

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珈琲も美味しいです♫

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あとは、このお店グラタンがめっちゃ美味しい!!

おすすめです( ˘ω˘ )

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昭和初期にタイムスリップしたようなレトロな空間が、逆に新しくも感じられるような・・・ずっと居たくなるようなお店です。

また行きたいなぁ。。。( ˘ω˘ )

この一ヶ月、

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ものすごく泣いた。泣いてばかりいる自分の情けなさや幼さにばかり直面させられたような気がする。

先日、映画館で「ナミヤ雑貨店の奇蹟」を見た。東野圭吾さんの本は一冊も読んだことがないし、彼のベストセラーと聞いてもピンと来なかったけど、CMなどで面白そうと思ってなんとなく見たかったのと、色んなところでこの映画の主題歌である山下達郎さんの曲を耳にしていて、詩がうったえてくるような感じでほんとに良い曲だなぁと思って、(山下達郎さんの曲も詳しくない。ただこの曲がもつメッセージ性みたいなものに惹かれた、)時間があれば見に行こうと思っていた。

見ていて思ったのは、どんな人のどんな人生でも、不正解はないんだということ。

苦しかったり悩んだりする日々も、無様にもがきながら生きていても、どんな出来事も、すべて無意味なことはなくて、繋がりあってるわたしたちは、きっと誰かの役に立っている。どんなに孤独だったとしても。

色んなことを考えさせられる作品で、途中からずっと泣いて、見終わったあと目が真っ赤に腫れた。そして次の日、目がひとえになった笑

ちょうど今の自分が求めてたメッセージをもらったような気がして、すごく救われた気がした。

西田敏行さんの演技がすごくて、ほんとにこんなおじさんいたんでは?と思ったし、魚屋ミュージシャンの役の俳優さんや悩める子犬?(だっけ?)の女優さん、養護施設の子役の女の子や萩原聖人さんとか、脇役の演技もめちゃくちゃ良かった。

ほんとはもう一回見に行きたかったけど、わたしが見に行った次の日に上映が終了やったみたいで、大人しくDVD出るの待つしかなーい。

急に寒くなって、今日は1月くらいの気温らしい。

色んなこと考えて、泣いたりしながらも、少しずつ前向きに生きていけたらいいな。

すべての時間にきっと意味はあるよね。

なにもいらない。

先月、大好きなおばあちゃんを亡くしてから、色んなことを考える。

人生って欲を持つことも大事だけど、ただ家族やまわりにいる大事な人が心身ともに健やかにいてくれることや、自分自身が食べれて眠れて健全に思考できて・・・っていう日々あたりまえに思っていたようなことがほんとうにかけがえのないことで、幸せなことなんだなぁって、理屈じゃなく、ほんとにしみじみと実感する。

今もまだ喪失感が強くて、ふとしたときに泣いてしまうけれど、またゆっくりと日常を取り戻していきたいと思う。

秋の訪れ

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台風が過ぎた後は朝夕だいぶ涼しく、秋を感じれるようになりましたね。

空気が夏とはぜんぜん違って、これからまた別の物語が始まるようなワクワク感も感じる秋の訪れ。

そういえば、先週、京都に行く際に乗った阪急電車が、たまたま京とれいんで、テンション上がりまくりでした\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )/\( ˆoˆ )/

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座席もこんなに和です。

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阪急電車が大好きなうえに、さらに京とれいんに乗ってしまって、ますますわたしの阪急電車への愛は深まりを増すのでした。

そんな秋の幕開け。

続き。

今年の4月から小説家になろうで連載してる牡丹の間を二ヶ月ぶりに続きをアップしました。

自分がこういうの読みたいんだよな〜〜っていうものを自分で書いていこうと思っていて、なので自分で面白く思えないことには始まらなくて、結局何度も書き直したりしてます。

執筆がすごくゆっくりのペースですが、読んでもらえると嬉しく思います。(ボーイズラブ注意です・・・) (^∇^)



   




逃げる人生それもまたあり。

9月1日。それは10代の子供の自殺がとても多い日らしい。新学期に学校に行きたくない。彼らにとっては、死んだほうがマシというほどに、それは嫌で、苦痛で、死を選ぶほうが好ましいのだ。


学校というのは牢獄に似てる。小さな檻の中に閉じ込められ、くだらないルールを押し付けられ、クラスの中でのカーストだってある。

社会に出たら、あのときは良かったと学生時代の青春の日々が輝いてみえる、などというノー天気な大人も稀にいたりもするが、学校生活に馴染めなかったり仲間はずれやイジメの標的になっている者にとっては、そこは地獄そのものであり、一分一秒が耐えがたく逃げ出したい「死んだほうがマシな場所」であるのだ。

それならば逃げたほうが良い。この複雑化された、もはや信じられるものは自分だけというようなサバイバルな現代においては逃げるという潔さも時には必要だ。

わたしは御多分に洩れず、人からイメージされる通り、不登校がちな生徒であった(^o^)

親はわたしの顔を見ればため息をついて、なんでこの子はこんなふうに育ってしまったのか・・・と頭を抱えていたし、それに加えて、個人的に学校の教師なんてものほど信用できない生き物はいないとわたしは強く思っていた。

ただわたしは、一人で静かに本を読んだり絵を描いたりすることが好きだったし、人の評価を気にするタイプではなかったので、一匹オオカミでいることに何ら疑問を持たず、逆に、群れて生きるほうがダセーよ、群れてないと何もできねー奴に何も言われたくないね、(-.-)y-., o Oと斜に構えていきるスタンスを自分の中で採用していた為、孤立する自分、人とは違う自分を、そこまで恥ずかしいと思ってはいなかった気がする。それでも中学生の頃は、まだアルバイトが出来ないわけで、家にいるか学校に行くか、そのどちらかの選択肢しか持てない無力さを、盗んだバイクで走り出したいような衝動を日々抱え、ただ悶々としていた。(尾崎豊風に、)


今30代になってみて、10代の頃を振り返ると・・・本当に、死んだって戻りたくない、と思う。悪夢そのもののような日々。もしも目が覚めて10代に戻っていたら、、わたしは二度と生きて乗り越えられる気がしない。もう二度と御免です、という気持ち。10代なんて、罰ゲームでしかないもん。

そんなわたしが今の死にたい10代に言えることは、とにかく逃げてほしいということ。もし学校の教師や親が信じられなければ、誰でもいいから信じられる人を作っていくことが大事だと思う。そして好きなことや趣味を一つずつ増やしていくこと。自分が好きなことは、少なからず自分の心を守る盾になってくれるはずだから・・・。わたしは当時読んでいた小説家の先生や、遠くに住む文通相手(ペンフレンド)に悩みをつらつらと便箋にしたため、そして送りつけていた。自分の心が何をしているときに楽しいのか、安心するのか、それを脇目を振らずに実践し、信じられない大人の言葉は聞くふりをしながら無視し続ければいい。とにかく死ぬよりも生きることを選択するほうが偉いのだ。生きていれば今後生きていて良かったと思えることにたくさん出逢える。わたしは成人してから、ああ、あのとき死ななくて良かったと思える出来事にたくさん出逢えた。生きることは苦しいことの連続だが、それでも時々ご褒美のような「良いこと」が起きる。それが人生だ。

真っ直ぐでなくていい、性格悪くて上等、100点満点o(^o^)o

自分だけは自分のいちばんの味方でいてほしいし、生きることを選択してほしい、と切に願う。

そしてこれは30代のおばさんの独り言である。







野ばらちゃん〜それは最高位に君臨する乙女の救世主その1〜

野ばらちゃん。

作家の嶽本野ばら先生のことをそう呼び始めてどれくらいの時が経つのでしょうか。

野ばらちゃんとの出会いは、わたしが当時中学生の頃、友達の部屋でたまたまめくったティーン向けの雑誌に野ばらちゃんがコラムを連載していたのがきっかけでした。わたしが産まれてから今まで出会ったこともないような独自性の塊のような世界観のある文体に引き込まれ、ビリビリとした衝撃を受けたこと、今も鮮やかに思い起こせるほどです。

それから時が過ぎ、野ばらちゃんは「それいぬ」というエッセイや「世界の終わりという名の雑貨店」という小説を世に放ち、待ち望んでいたわたしは何度も何度も本がボロボロになるくらいに貪り読んだのでした。野ばらちゃんの小説に出てくる人たちは、皆不器用で、どこか生き辛さを抱えており、それでも懸命に自分の大切なものや自分の領域を守るため、無神経で繊細さに欠ける現実の世界と格闘するのでした。野ばらちゃんの本に出てくる登場人物の佇まいが、そこから発せられるメッセージが、死にたくて仕方のない10代のわたしをどんなにか共鳴させ、そして手を取っては何度も立ち上がらせるのでした。

そんな自分の救世主のような神のような存在である野ばらちゃんを目の前で初めて見、そして触れ、お話ししたのは、高校生になって「下妻物語」が発売になってからのことでした。地元の本屋さんに野ばらちゃんが来る!と、友だちと飛び上がって喜び、指折り数えてはその日を楽しみに待ち焦がれていました。

当日、わたし達の目の前に現れた野ばらちゃんは、ヴィヴィアンのロッキンフォースを履いた折れそうに細い脚に、BABYのヘッドドレスを顎ではなく頭の後ろでリボンを結び、まさに乙女のカリスマ此処に参上!といった風情で、こんな男性がこの世にいるなんて・・・!といった非現実の塊のような、にわかには其処にいることが信じられないような、、そんな想いを、二人といない存在感を醸し出している野ばらちゃんに対して抱いたのでした。

自分の番が訪れ、徹夜で書いた手紙を渡すわたしに乙女のカリスマはとても優しく、友だちのような親しみやすい振る舞いで、本にサインをしてくれ、握手をしてくれ、頰をくっつけて写真まで撮ってくれたのでした。

ー野ばらちゃん、という呼び方は、作家先生に対して冷静に考えると、とても失礼、いや、自分のどこかでは、跪いて野ばら先生と呼ぶのが相応しい、そう声がするものの、本人を前にすると、やっぱり野ばらちゃん、という呼び方になってしまう。野ばらちゃん以外正しい呼び方などありはしない。と、居直ってしまうのです。それはなぜか?それはやはり、野ばらちゃんは野ばらちゃんという乙女のリーダー、乙女の主犯格、乙女の大統領、乙女の・・・といった具合に、やっぱり乙女のカリスマだからなのです(開き直る。)

そんな乙女のカリスマ野ばらちゃんもこの近年は実生活で色んなことがあり、そんな中で去年の秋に「落花生」というエッセイを世に出しました。

その際に行われたサイン会では、野ばらちゃんの姿を見て涙がこぼれそうになりながら、野ばらちゃんがこうして生きていてくれて、本当に良かったと、心から神さまに感謝したのでした。