野ばらちゃん〜それは最高位に君臨する乙女の救世主その1〜

野ばらちゃん。

作家の嶽本野ばら先生のことをそう呼び始めてどれくらいの時が経つのでしょうか。

野ばらちゃんとの出会いは、わたしが当時中学生の頃、友達の部屋でたまたまめくったティーン向けの雑誌に野ばらちゃんがコラムを連載していたのがきっかけでした。わたしが産まれてから今まで出会ったこともないような独自性の塊のような世界観のある文体に引き込まれ、ビリビリとした衝撃を受けたこと、今も鮮やかに思い起こせるほどです。

それから時が過ぎ、野ばらちゃんは「それいぬ」というエッセイや「世界の終わりという名の雑貨店」という小説を世に放ち、待ち望んでいたわたしは何度も何度も本がボロボロになるくらいに貪り読んだのでした。野ばらちゃんの小説に出てくる人たちは、皆不器用で、どこか生き辛さを抱えており、それでも懸命に自分の大切なものや自分の領域を守るため、無神経で繊細さに欠ける現実の世界と格闘するのでした。野ばらちゃんの本に出てくる登場人物の佇まいが、そこから発せられるメッセージが、死にたくて仕方のない10代のわたしをどんなにか共鳴させ、そして手を取っては何度も立ち上がらせるのでした。

そんな自分の救世主のような神のような存在である野ばらちゃんを目の前で初めて見、そして触れ、お話ししたのは、高校生になって「下妻物語」が発売になってからのことでした。地元の本屋さんに野ばらちゃんが来る!と、友だちと飛び上がって喜び、指折り数えてはその日を楽しみに待ち焦がれていました。

当日、わたし達の目の前に現れた野ばらちゃんは、ヴィヴィアンのロッキンフォースを履いた折れそうに細い脚に、BABYのヘッドドレスを顎ではなく頭の後ろでリボンを結び、まさに乙女のカリスマ此処に参上!といった風情で、こんな男性がこの世にいるなんて・・・!といった非現実の塊のような、にわかには其処にいることが信じられないような、、そんな想いを、二人といない存在感を醸し出している野ばらちゃんに対して抱いたのでした。

自分の番が訪れ、徹夜で書いた手紙を渡すわたしに乙女のカリスマはとても優しく、友だちのような親しみやすい振る舞いで、本にサインをしてくれ、握手をしてくれ、頰をくっつけて写真まで撮ってくれたのでした。

ー野ばらちゃん、という呼び方は、作家先生に対して冷静に考えると、とても失礼、いや、自分のどこかでは、跪いて野ばら先生と呼ぶのが相応しい、そう声がするものの、本人を前にすると、やっぱり野ばらちゃん、という呼び方になってしまう。野ばらちゃん以外正しい呼び方などありはしない。と、居直ってしまうのです。それはなぜか?それはやはり、野ばらちゃんは野ばらちゃんという乙女のリーダー、乙女の主犯格、乙女の大統領、乙女の・・・といった具合に、やっぱり乙女のカリスマだからなのです(開き直る。)

そんな乙女のカリスマ野ばらちゃんもこの近年は実生活で色んなことがあり、そんな中で去年の秋に「落花生」というエッセイを世に出しました。

その際に行われたサイン会では、野ばらちゃんの姿を見て涙がこぼれそうになりながら、野ばらちゃんがこうして生きていてくれて、本当に良かったと、心から神さまに感謝したのでした。

シュガーマーガリンのパン。

f:id:eri464646:20170803004046j:plain

普段は滅多に食べることのないお砂糖がたっぷりのったパンをコンビニで目にして、いつの間にか手に取りレジへと向かっていた。

こういうのは、ある日突然、いつもとは違う道を通って帰りたくなるような感覚に似てる。

甘い甘いお砂糖のパン。久しぶりに食べると、懐かしくて美味しい(๑>◡<๑)

現実逃避する為に生きてる。

f:id:eri464646:20170715170559j:plain

ときどき、すごく生きづらい。なんでこんなに苦しいのに、生きているのか、生きているのだろう、と思い考え込む。

たぶん普通の人よりも(普通の人なんていう概念は本当は幻想なのだろうけど、、)わたしは少し不器用で大人になりきれない部分が大半を占め、実生活に即していない為だと思うが、それでも自分の妄想力や想像力は誰にも譲れないと思うほど卓越していると自負しているので、(自慢できるものではないが、)多少生きづらくても、最終的には、あぁわたしに生まれて良かった〜〜なんていう想いに終着するのである。

自分のことが嫌いかと問われれば、そういうわけでなく、今の世の中で生きづらさを感じる自分に悪戦苦闘しながらも、それでもあの手この手を使ってなんとか生き続ける自分を気に入っていたりする。

夏は暑くてほんとうにほんとうに苦手だ。でも、イメージの中にある夏は好き。矛盾している。わたしのイメージの中にいつもある夏は、たとえば子供の頃にクーラーの効いた涼しい部屋で食べたアイスクリームや、夏の昼下がりに図書館で読んでいた本だったり、主人公が可愛いワンピースを着てはしゃいでる少女漫画の中に見る夏の風景はどれも好きで、そういった、かつての自分が享受していた平和な時間に集約されるものであり、夏になるとそういったキラキラした懐かしいイメージばかりが頭の中を占め切なくなってしまう。

そういうのもあり、夏の終わりはいつもセンチメンタルな気分になったりもする。

パリピとは程遠いところで生きるわたしは、夏ほど人のいないところでひっそりと生きていたいので、願いが叶うなら、少女漫画に出てくるお金持ちキャラが夏休みにみんなを別荘に招待したりしてたように、わたしの場合は友達が少ないので、誰も招待しなくとも別荘を持って一人でこもっていたい笑

暑い( ˙-˙ )

暑くて暑くて、炭酸のドリンクとアイスとクーラーの効いた部屋がないと生きられない!

f:id:eri464646:20170703220834j:plain

7月3日、今日はソフトクリームの日だそう。

偶然にも今さっきスーパーで「うずまきソフト」を買ってきたところ🍦

去年から、うずまきソフトにハマってて、数え切れぬくらい食べてる(๑>◡<๑)

うずまきソフトはチョコバニラが大好き♬いくらでも食べれる🍦🍦🍦

牡丹の間

アップしました(*´-`)

この数週間、日常生活で色々とあり、筆が完全に止まっていました。人生〜楽ありゃ苦〜もあるさ〜〜♩

最近、ほんとうに色んなことを考えるんです。牡丹の間に関しては、何があろうとも完結させたいので、意地でも執筆は続けていきたいです。

遠くへ行きたい。

f:id:eri464646:20170620030627j:plain

なんか無性に遠くへ行きたくなることってないですか。

生きていたら、何もしなくてもお腹が減って、喉が乾くし、何もしなくても人間関係などのあらゆるしがらみがあって、それに何もしなくてもポストには色んな請求書が来ます(笑)

そういう、生きていることに付属する、大人として受け入れなければならないあらゆることが多すぎて、時に、もう何もかもを投げ出して遠くへ行きたくなる。

わたし疲れているのかも。そう認めるだけで、少しは楽になれるけど、

時間の流れが早すぎて、時を止めたくなる。

日陰にずっと隠れて眼を閉じていたい。(病気)

おセンチ症候群。

わたしは、ただ息をしているだけで、なんとなく切なくやるせない気持ちになることが多々ある。特にこれといった理由もなくとも、おセンチモードと呼ぶに相応しい、なんともいえない気持ちに支配されるのだ。

先週、実家のある岡山に帰っていた。そこで、わたしが昔使っていた部屋の、わたしが使っていた勉強机に、昼下がり、風がレースのカーテンを揺らすなか、ひとりポツンと座っているだけで、なぜだか泣きたくなってしまう。

かつて、ここはわたしの部屋だったが、もうわたしの物などひとつもない部屋だ。

10代の頃はちっとも健康ではなく、病気ばかりしていた。死ぬことばかりを考えクヨクヨして、生きていくことの重みに耐えきれず、泣いてばかりいた。いつも本が友だちだった。

わたしはあの頃から成長できているのかな。なんだか歳だけを重ねたような気もするし。好きなものも趣味も何も変わっていない。

わたしは、わたしだけが、何ひとつ変わらず、未だ子供のままのような気がするのに、おじいちゃんは亡くなってしまったし、妹は結婚した。時間はとまってはくれないし、このまま自分だけが取り残されて、ただポツンと部屋に座っているような感覚に襲われた。

昔よりも人と臆せず話せるようになったし、上手く笑えるようになったかもしれないが、この部屋にはまだ生きることに臆病な少女の頃のわたしがいるような気がしてしまう。

岡山に帰ると、いつも、なんともいえないノスタルジーと、そしてもう二度と帰ることのできない昔の思い出と格闘してしまう。

こういった、名付けようもない、心の葛藤(?)をみんなはどうしているのか。いくつになっても、自分以外の世の中の人全員は、上手くスイスイと生きていってる気がするのに、わたしはいちいち色んなことに想いを馳せて、まっすぐな道でも、あえて難しく歩いてしまっているような気がしてしまう。

自分以外の、誰かになりたい。10代の頃、いつもそう思って願うように眠りについていた。

今はそんなことは一切思わないし、自分がいちばんだと思うくらいには自分のことが好きで、自分のことは自分がいちばんよく解っていると思っている。(嫌になることは多々あるけれど、)

だからその点は、大人になってよかったなという、唯一の収穫のような気がする。

はぁ〜生きてるっておセンチ!(;o;)